第十章

1番がサナギになってその様子に余りに変化が無いので少し心配していた。しかし八日後にいつもの様にチラチラ見ていて「あれ?」と思った。
「ちょっと模様が浮かんできているのでは?」
黄緑色だったボディに薄い黒や白っぽい斑点が浮き出て来ているではないか。
その後1番はゆっくりと変色して九日目を過ぎるとサナギの薄皮一枚の向こうに黒い物体がギュッと収まっているのが良く分かるまでになった。
ついに来たな、いよいよだ…。
孵化する様子を是非間近で見たいと熱望したが、ならば二三日寝ずに定点観測覚悟、となればそれは不可能。まあその後にも孵化待ちが控えているのでまだチャンスはある、無理はやめようと思った。
その頃には窓枠のオブジェと化した2番を含め9番までのイモがスクスクと育っていたので、これだけいれば孵化する様子や他にも「セブンになる様子」「セブンからサナギになる様子」もいつか見れるだろうと思った。とにかく自分が見たい欲求は抑えて自然のままに。見れたらラッキー、という事で。
どういうタイミングかは分からないが今後の展開は「サナギの上部から殻を破って出てきて羽根を乾かす為に暫くは止まっている」らしい。しかし実際どんな事になるかは未知数。もうすぐなのは確実なので、もし見ていない時に孵化した場合に備えてバケツにカップを入れ、一応割り箸をサナギの近くにセット。そして産まれてすぐにどこかしらにつかまれる様に内側にタオルをぐるりと設置してみた。ツルツルのバケツの内壁全体を引っかかりやすくした訳だ。
「とにかく無事産まれてくれれば良い。」そう祈った。

十日目の朝が来た。
気になっている為か昨夜も何回か目が覚めてその時にチェックしたが1番に動きはなかった。
なので、まだだろうなとフラッとバケツを見に行ったら…産まれていた。おぉ…1番イモがアゲハ蝶になった…。
「本当にこうなるんだ。」と思った。
パリパリのサナギの皮の少し上のタオル面に、まだ羽根がシワシワの状態の1番がじっとしがみつく様に静止していた。模様からしてスタンダードな良く見るタイプのアゲハである。おぉ…これだけの体を小さなサナギの中に閉じこめてさぞ窮屈だったろう。
この羽根のシワシワ感からして産まれたてなのだろう。だとしたら「もうちょい待って孵化するところを見せろよ〜。」と思ったがそれはもう良い。
タマゴから飛び出して約三週間。あのイモがこれになったという事実がまだちょっと信じられない。
あんなミクロな茶イモだったのが黄緑になって、モジモジサクサクしたら、今や黒ベースに鮮やかな薄茶や白、薄紫やオレンジの複雑な模様をあしらった空飛ぶベルベットになるなんて。理屈ばかり考えがちな頭ではまだちょっと追い付けない。
1番はその後ニ十分程かけてゆっくりと羽根を伸ばし、遂にはピンッと広げてパタパタし始めた。
起きてきた妻もその姿を見て興奮していた。
妻も頑張ってくれた。虫苦手を無理矢理克服してもらいサポートしてくれたから1番は無事に孵化する事が出来た。
アゲハを見た妻は嬉しそうだった。良かった。そんな妻の姿も見たかったのだ。
せっかくなので滅茶苦茶観察した。
アゲハ蝶をこんな間近で見る事は初めてだ、しかもちょっと指を出したら乗ってきて、手の中でじっとしているではないか。
間近で見ると本当に綺麗だった。なにせ産まれたてだから傷一つ無い新品。ジャケットから初めて出したバリバリ新品のアナログレコードを思わせる黒光りの美である。
今まで「長男だから1番」とか言っていたが、良く見たらメスだった。長女だった。
妻にも見せると、
「この模様ってイモっぽくない?」と言ってきた。
「え、どこのこと言ってんの。」
「この羽根の下の所の模様がこう…。」
気が付かなかった。確かに羽根を開いた時の下のふちの模様がイモムシを横から見た時の姿に似ていた。しかも両方の羽根にシンメトリーにあるので二匹のイモが内側に見合っている様子に見える。
「一度液状化するにしても、イモ時代の模様の名残をこんな感じで残しているのかね。そう言われたらこの模様、イモにしか見えなくなってきた。しかし良く気が付いたね。」
「そこそこ見せられていましたからね。で、すぐに外に放しちゃうの?」
「まあサナギになってから十日間何にも食べてなくて腹ペコだと思うからすぐ放してあげたいけど、少し飛んだり落ち着いてきたらにしようと思う。」
「分かった。じゃ私は行ってきます。」そして妻は1番に「じゃあね」と別れを告げて仕事に出かけた。
私はまだ外出まで時間があったので暫くは遠目に観察しながらコーヒーでも飲んでいた。
「アゲハカフェ」である。
一時間もしたら飛びが安定してきた。網戸に向かって元気にパタパタ「出たいのだが」アピールをしている。そろそろかなヨシヨシと思い腰を上げた。
ずっとこの瞬間の事は想像していた。
遂に別れの時が来た。しかしアゲハ蝶は中々外に出ようとしない。「ほら、もう行かないと。外の世界が君を待っているよ」とばかりに促すとやっとの事で飛び出すが、外にある鉢に止まって動かない。「しょうがないな。」暫く見守る。すると風が吹き、それに乗ってフワリと蝶が舞う。「そうだ、それに乗って飛んでいけ。」アゲハ蝶はまだ慣れない飛行に苦戦しながら去ることを惜しむ様に風と共に去っていった…「サ・ヨ・ウ・ナ・ラ…。」…的な事になるのでは、と思っていた。
しかし現実はというと、網戸を開けた途端、1番は一目散に空の彼方に消えていってしまった。
電光石火。シュピッという音さえ聞こえた。
「女子は現実的だな…。」
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